FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

現代日本の聖職者と古来の聖職者

f:id:FujiYama:20210513224206j:plain私の母がよく昔の職場の知人の僧侶や先祖代々世話になった寺の住職について、こぼしていた。

「あの人たちは、毎日おいしいものを食べて、気持ちよく読経して、健康そのものでピンピンしている。それにひきかえ我が家は」

具体的には浄土真宗の僧侶についてグチを言っているのだが、まあ実際に毎日のように地方都市の銀座のクラブや料亭でおいしいものを食べたり、よい洋服を着ることができて、読経は独唱会であってなにも辛さのない楽しい修行でありもうかる業務だから、うらやましいというのは多少わかるし、その原資になっているのが、先祖代々の資産であるから、愚痴るのも当然かなと思う。

たとえば母が東京のある私立大学に推薦で合格をもらった。有名大学でルンルンだったそうだが、結局入学前の寄付金を理由に、別の有名私大に行くハメになり、もしお布施の一回分でもあれば、寄付金なんてすぐに出る高額なお布施を代々折々に払い続けてきたのである。今なら普通車が買えるくらいの額が一回分。

そしてまたよく言っていたのだが「あの生臭坊主」「坊主は生臭」という決まり文句である。

尊敬できるお坊さんならお布施をするのは仕方ないと諦めるところだが、明治に入って妻帯を大っぴらにやりだし、しかも街で女遊びが当たり前になると、、、、。

母方は資産家だったから、まさに絶好のカモになり、目が飛び出るようなお布施をさせられているのを目の当たりにし、また、幼い私にもその深い嘆きはしっかり届いたのである。

あたりまえだが、お釈迦さまは出家した時に妻子と完全に離別し、衆生を救うために生涯を過ごした。そしてアジアの伝統として、僧侶という出家集団は妻帯はほぼしなかった。ほぼ、というのは例外はある。

日蓮正宗では有名な話だが、鎌倉時代の門下に妻帯していた僧侶がいたり、比叡山の僧侶が妻帯していたという記録もあるので、例外とはいえ、そこそこ認知されていたらしい。

問題は、妻帯や女遊びをしている僧侶を敬う人がどのくらいいるのか、許せる人と許せない人がいるということである。日蓮の教えとして他人の妻を犯すのは悪いという仏教古来の戒はあるが、では僧侶が異性交遊してはならないという直接の記述はまだ見たことがない。邪淫が悪いというのは明確にあって、邪淫ではない純愛性交もあるではないかと言えばそれまでになるので、これも厳密には妻帯禁止と女遊び禁止については、せいぜい女遊び禁止というまでになろう。

昔は檀家さんが幕府の縛りでボンドみたいに引っ付いて離れなかったから、妻帯があろうがなかろうが、別に権力として檀家がつくだけ。昔は信教の自由がなかったから何の問題もない面があった。

現代日本ではここ最近で仏教の信徒が4000万人減少したという統計が出ている。

母のぼやきは日本人のぼやきだったわけである。

日蓮正宗も妻帯をしているから、さぞかし皆さん遊びまわっているだろうと思ったら、それほどでもないようだ。新興宗教創価学会がねつ造写真まで使って御法主上人の料亭遊びを広めている実際の事情を確認すると、たんなる祝いごと行事で身内が料亭を利用しただけで、いわゆる法主豪遊というキャッチは虚偽のものだった。

贅沢よりむしろ仏法厳護の観点から仏教徒を指導する立場の僧侶が、寺院経営をする上で、一族を養う必要性が肥大化して、本来の寺院運営に支障が出ないかという問題が危惧される。

妻帯をみなさんが知っているから、あまり僧侶に敬意を払う人がいなくなり、檀信徒と離れていくにつれ、寺院への実入りは減っていく。つまり悪循環に陥っている。妻帯すれば実入りがもっと欲しい。妻帯すれば檀信徒は離れる。負のスパイラルにはまっている。

そうすると汲汲としたあたかも飢えた猟師のようになって、信徒をカネと官位によって峻別し、貧乏人や病人は要らない、寺に変な身なりの人は寄り付かないほうがよい、会社員でない人はなにをするかわからないという法華講中の示し合わせが自然に醸成されていって、次第に信徒さんは新興宗教に流れていくという次第である。

以前にも記事にしたが、日蓮正宗の教えでは貧しい人や賎しい人も尊重しなさいというのが常識的な明文として知られているから、日蓮の教えに反する状態が常態化しているのである。

こうなると深刻で、僧侶がいくら信徒を尊重してみせても、日蓮の御書にこう書いてあると言っても、もはや空文化した御文となり、形骸化した仏教寺院とか伽藍仏教とかいう新興宗教の批判が実際に一面正しいことになる。改革派優勢といった実況である。

僧侶を貶めるための批判は、僧侶に対して失礼だとわかるが、では日蓮正宗の御開山日興上人の有名な遺誡置文にはなんと明記されているか、これが宗門の憲法にあたる重要な文である。

ちょうど明治維新の時期の過渡期の第52世日霑上人のお言葉があったので、一般には難解だが引用すると、「開山上人の御遺戒に、先師の如く予が化儀は聖僧たるべし、但し時の貫主、習学の仁に於て縦ひ一旦の妖犯ありといへども、衆徒に差置くべき事と、あるも同じ意にして文意を云はヾ、予が聖僧の化儀を破り、淫事を犯せし者なりとも、若し習學勉強にして、大法傳弘の志し深き者に於て、時の貫主日興になりかはりて彼が一旦の犯罪を許し、大衆の中に加へ置くべしとの御意にして是れ亦た決して、故なく犯戒の者を許したまふ事では御ざらぬぢや。(中略)是に背き天朝の御許しを、悦んで肉食妻帯の身を甘んずる一宗の僧侶は他門にもせよ自門にもせよ、皆是れ釋尊の化儀を破り、自ら廃佛を招くの輩ではござるまいか、爾ら自門中の僧侶たらん者は、先ず學問もせねばならぬが、夫れよりも信心と身の行ひが肝要でござる、なんば博學秀才にして内外典籍を胸に浮べたる僧たりとも、其信心なく、行ひ亂暴たらば還て在家の信を破り、自ら廃佛を招くの基となるべし。」(第52世日霑上人『明治21年布教会報1号』/<風塵舎>WS)

日興上人の文は仏法を厳護することを目的としているので、要するに妻帯は自滅になるぞと警告してくださっているのであり、実際に末寺の寺院運営や法華講の会話ややり方を見ていると、どうやら第52世上人のお言葉は的中している。

媱犯(エッチなこと)は断じて許さないという日興上人の厳しい指示を曲解すれば、また甘く解釈すれば、妻帯が可能になるが、厳格に文を読めば、間違いなく妻帯は媱犯として戒められるものである。

これについて第59世日亨上人がわかりやすくさらに仰っている。

一、先師の如く予が化儀も聖僧為る可し、但し時の貫首或は習学の仁に於ては設い一旦の媱犯有りと雖も衆徒に差置く可き事。(『日興遺誡置文』全集1619頁)
 この条の見とおしは、凡僧の自分にはつきかぬる。なるべくは、一時的の現今の僧分の弊風とみて、その内自然に振粛して、宗祖開山時代の常態に帰るべきを祈るものである。大聖人は戒の相用を排斥せられたが、全然解放せられた無戒主義でない。五・八・十具の小乗戒を捨て、また十重四十八軽の大乗梵網戒を捨てられたが、無作の本円戒は残されてあり、そのための本門戒壇であり、その戒相の内容は明示せられてないが、小乗・大乗・迹門の戒相によらぬのみであり、それを無作と名づけてみても、けっして放縦不覊(ほうじゅうふき)なものでない。
 開山上人がこの法度に「先師の如く聖僧たるべし」と定められ、先師大聖人が無戒であるが、放埓(ほうらつ)破戒でないことを、証明せられており、日順・日尊にもまた放埓を誡めた文もあるが、この淑行聖僧というのは、現今の在家同然の僧行を認めたものでない。ややもすれば、多少の反省心より汚行を恥づる有羞僧を見て、かえって身心相応せぬ虚偽漢と罵り、全分の生活まったく在家同然で、心意またこれに相応し、たんに袈裟衣を着てるだけの違いを、かえって偽らざる正直の僧侶と自負する者があるやに聞く。このていの放埓ぶりを標準とせば、この条目はいまは死んでおる。自分はいまの状態は一時の変体と見ておる。次に「時の貫首或は習学の仁」等の文は、難解である。「貫首」の二字は、明らかであるも「習学の仁」は、一応はとくに学窓に入っておる人で、そのために天台等の談所に遊学しておる人と見るべきで、それが悪縁に引かれて、女犯しても、還俗破門せしめずして衆徒のままとし、学僧としての当然の昇進を止め、また貫主の高位を貶(おと)して下位に沈まするということと解釈する外はない。こういうひじょうの事態が、かならず起こるべきとしてその用意に作られた法度では恐らくあるまい。
 これをまた、その現在の史実に照らしてみるに、重須の後董は日代上人でこの間題にはいる仁でなく、また同山に習学の若徒は見当たらぬ。大石の後董は、日目上人で74歳であり、信行具足の聖僧でその憂いは全然ない。目師の後を受くべき日道上人も、若徒でなく習学の仁でもない。大学日乗の実児であり、ともに出家した民部日盛は、長く鎌倉遊学で興目両師の器許するところで、あるいはこの仁が目師の跡を継ぐべきであるに、親父の流れを悪しく汲んで女犯の疑いがあったのかも知れぬ。そうでなければ、開山上人の立法があまりにも将来の夢に過ぎぬことになる。(第59世日亨上人著『富士日興上人詳伝(下)』272頁)

つまり妻帯は一時的な悪習であり、興門流ではそのうち宗制宗規かなにかで禁止になるのが当然であると明言されておられるのである。

もともと一般仏教の主流は妻帯ではない。妻帯はどこまでも例外である。

日本においても同様で、明治になって幕府の禁令が解かれたから、僧侶たちは目が血走って女遊びに狂奔したというのが実情である。江戸幕府が例外を許していれば、そんな風にはならなかっただろうが、必要以上に罰則を厳しくしていたために、どちらかと言えばメスに飢えた犬のようになっていたらしい。

歴史的文献記録に明らかなように釈迦、日蓮、日興、日目と聖人やその弟子たちは独身を貫いており、エッチなことにかまけている暇などまったくなかった。話が偏ると少し憂鬱なのでもうひとつ、食べ物についても、魚鳥は食べなかったということだ。肉食がだめなだけではなく、魚すら食べなかった。

地球上の全生命尊重を第一にした聖人と実直な弟子たちは、完全なる徹底した聖人たちであったのだ。ちなみに日興上人は聖僧の筆頭代表である。

昨今、公務員や政治家、学校の先生たちのサラリーマン化の弊害が問題になっており、公益という概念が日本国から衰退して久しい。みな家庭があって出世が大事だから、つまり私利私欲が当然であるから、汚職もいじめも当たり前という社会的な或いはマスコミ的な流れができてしまった。

こういう状況は本来の仏教の対極にあり、神道キリスト教などの常識的な私利私欲型人間を尊重する流れである。商売さえしておれば、他人がどうなろうがどうでもよい。汚職や利権は富裕層として当然の権利であるし、弱者がどうなろうがまったく知らないという考え方である。江戸時代というのは士族が世を治めていたから、庶民はいつ殺されるかわからない面ばかりが強調されるが、道理もなく命を奪うことは仏教的に悪いとされ、しかも僧侶の妻帯女犯を厳しく禁止処罰するという揺るぎない社会正義が存在していたのである。表向き人が死ぬのは、飢饉や疫病などの真にやむを得ない限りにおいてであり、勤労者である農民や製造業者たちは尊重されていた。徳川家康は仏教と僧侶たちを実にうまく使って太平の幕藩体制を長く保たせることに成功した。黒歴史は商人と悪代官によってのみ作られ、かなり限定的な虐殺が行われた。多くの庶民はまじめに勤めさえすれば子孫と平和が約束されていた。

植民地政策の時代を経て、現代はウイグルなどで公然と虐待や虐殺が行われるアマゾン型新自由主義の時代になった。アフリカだけが飢饉や教育の問題を抱えているのではなく、世界中で貧困層が増えてまともに食べられないし教育も受けられない市民が増えた。士農工商というのは優れた身分階級制度であって、現代の商軍政工農というユダヤキリスト対中共の世界商業戦略に巻込まれた日本もまた、勤労者を含めた貧困化が深刻である。低所得の日本人奴隷たちもまたジェノサイドされている最中である。

各国の指導者たち、聖職者たちが、襟を正し、まともな僧侶は妻帯を放棄して、きちんとした勤労者尊重と障害者擁護ができる国づくり宗門づくりをしていく必要があるのではないだろうか?

人間はばらばらの私利私欲の個人としては、その尊厳が護られないようにできている。

親族、宗教、地域、職場、公益部門等の関連、社会的な存在として生きていることを今一度思い起こして、人類の一員としてなにか具体的な行動をとれる人間でありたい。

仏教や古典には賢王が説かれているが、今のユダヤ財閥や中共幹部にはそんなもの興味がないだろう。ハーバードの有名な教授や京都大学憂国の教授たちが、政治家にいくら語り掛けてもまったく聞く耳を持たないのが実情である。権力者たち政治家たちは金や名誉で骨抜きになって私利私欲にとち狂い、酔いしれ、おぼれている。

市民ひとりひとりが、きちんと考えて選ぶべき親族、宗教、職場、政治家を選ばなければ、だれもあなたのことなど知らないのである。なんとなく今良ければそれでいいという安易な考え方が地球上の市民全員の首を絞めている。ある程度忍耐力は必要だが、ただ耐えてもなにも改善しない。

聖職者の鏡であるべき日蓮正宗僧侶を筆頭に、本来の正しく清廉な仏教をきちんとやらないとみんなが不幸になる一方である。

誰も信じられない誰も助けられない社会になりつつある。

暗黒の原始古代社会とあまり変わらない現代世界を生きる一信徒として世界人類の幸福を願い、猊下宗務院に思索検討の具体的行動を願ってやまない。