FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

ゆめと現実を逆算する

夢をもたなければ、現実を見なければ、さてどちらを優先しますか?
仏教では自己中心的なものを夢中としている。他者のための行為が現実を生きることであるとしている。つまり少し概念が違う。
私の解釈では夢を持って現実を生きることでどちらかを選ぶという悩ましいことから解放される。
現実だけを生きるのは息がつまるし、夢だけに生きられるのは限られた時間だけだ。現実に夢を採り入れる。私にとっては採光窓みたいな感覚です。
夢をあきらめるというのが一時期だけの必要性で、80年もある人生のなかでちょくちょく夢を生活に採り入れることが人生を豊かにすると思う。
夢で食べていくことは結構難しい。
しかし食べながら夢を見ることは結構できてしまう。食べられない人はまず食べられるように努力しなければならないが、80年のなかでなにも夢を見られないというのはウソです。
人生を選ぶのは自分しかいないから、夢を捨ててしまわないで大事に持ち続けることがなにより大切だなと思います。
ありきたりで照れ臭いようなことを書いて終わりにしようとは思っていません。
人間に生まれてきたからには、地獄、餓鬼、畜生の世界に生きて死んで行くような人生は嫌なものです。悪夢です。
まずはせめてマシな修羅生活、冷静な人間生活、夢のような天界生活をしてみたいと願うものです。
しかしそれが最高ではないと仏様は教えています。好き放題はたんなる五里霧中です。
この世界にはいったいどんな生活、どんな世界があるのかというのが仏典にたくさん描かれますが、比喩が大きすぎて一瞬なんのことかわかりません。
しかし結局理想の世界はお寺の世界に集約されていました。仏典の中の世界と考えると別世界ですけど、お寺の風景、世界がそのまま理想境なのです。これなんかが夢のような現実です。あらゆる事物事象とあらゆる登場人物がひとつの生命活動を関連して行っていて、その中心に生命賛歌があるので、分け隔てなく、みんなで生きていることに感謝できるのかもしれません。オーケストラ音楽も似たようなところがあります。
日蓮正宗でお題目を唱えているといつも悩むことが馬鹿らしくなってきます。理想的な分け隔てない魂の自由と安穏が今すでにあることを感じると、悩み事をゆとりをもって眺めてから対応できるようになり、自分の能力も客観的に眺めることができ、そういう一時を持つことの有り難さを感じます。
いくら自分がいけているつもりでも、人間にはおごりというものがあります。若さがあり、親の支援があり、友達の助けがあり、子供の助けがあり、能力があり、なんとかなるだろうという惰性に生きていることに気がつかないものです。それもまた夢中に生きていることと同じなわけです。仏様はそんな衆生たちの思い上がりを慈悲で撃ち破るだけの熱意を持っていらっしゃいます。そして暖かく慈悲で見守っていくのもまた仏様です。
夢を持って現実の社会に貢献していける人間になることは、難しいようで誰もが挑戦していることだと思います。死ぬまでは挑戦です。死ねば少し休めるというだけなのです。
つまり夢とうつつの狭間は死という事実事象なのです。