FujiYama’s blog

日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

不祥事の原因

カトリックの聖職者が児童虐待をしていることが重大な問題になっています。人間はなぜ過ちをおかすか?神の代理人なんてできるわけもないことをナゼ教会はやろうとするのでしょうか?
人間はどこまで行っても人間です。それ以上にはなりません。
不祥事は自分を神の一種とか神の一族と勘違いすることから発生しています。
仏教でも生き仏のようなお坊さんが不貞行為をしたり私利私欲に走ったりと不祥事があとをたちません。
これらは宗教がかえって人間の倫理的行動を阻害している実例で枚挙に暇がありません。
宗教倫理があれば他の倫理が不要だという暴論、論理の飛躍がまかりとおっているのです。交通ルールを守っているから万引きは許されるみたいな。
しかし宗教倫理と一般的倫理が合致する宗教があればと願うのがノーマルではないでしょうか?聖職者が少々お酒を嗜むとか芸術を嗜むという範囲であれば一般的に許容されます。
生き仏のようなお坊さんではなくて、生き仏になってしまう仏教なら大歓迎です。
質素倹約を常として信徒のために日夜精進するようにシステム化された仏教なら御布施も惜しくないものになります。
各派のなかでは日蓮正宗がそういうきちんとした仏教で、きちんと修行すればどんな人でも許容できる優れた仏教者になれる特に秀でた稀な宗教ということです。
宗教のいろいろな綺麗事、政治的綺麗事は聞きあきました。結局どの宗教も誰かを敵にして排除することのほうに熱心です。寛容の精神なんて綺麗事です。許しの心なんて絵空事です。
教育者たちがよく宗教の教えなんか持ち出していますが普通に逆効果にしかなりません。
人間が人間のままであらゆる人間に対する寛容の精神を持つこと、つまり生き仏になることは通常不可能であり、日蓮正宗でしか実現可能性がないということに、一人でも多く一日でもはやく気が付いて欲しいです。そんな奇跡的な宗教が静岡県富士宮市にあるなんて一瞬信じられませんが。
私は神のもとの平等、仏は釈迦だけしかいないという思い込みに支配されないように皆さんを啓蒙しています。神のもとで貧困と虐待が起こり、釈迦の綺麗事に皆さんキレるだけでは、人類は不幸です。享楽にフケるだけが人生とか子孫をのこすだけが目的に終わってしまいます。享楽や子孫繁栄もほぼ一般的生物としての幸福に終わり、ほぼ人間としてすら生きられません。そう不祥事の原因はまさに神と仏だったのですね。あんなものがあるから皆さん不祥事、不貞、犯罪、虐待にはしるのです。