御寺や仏教について、月並みな知識しか持ち合わせていない。
歴史的に御寺が行政に組込まれてその下請け業務を執行してきたので、そこがよいところであり、よくわからないところということになる。
江戸時代に庄屋も代官をやらされてずいぶんと権限もあったが、わけへだてなく民を取扱う戸籍制度が充実したのは、仏教各派のおかげである。
だれが病気をしたとか病気がちであるとか、どこの誰と誰が縁組した、どこの商家に丁稚に出した、などの個人や家庭の事情を逐一把握して戸籍に書き込みを入れるのが、庄屋代官と寺院住職のつとめとしてやや重複するものとなっていた。
信徒代表、信徒総代などの役職を庄屋代官がつとめるのが通例でもあったようである。
しかし残念ながら江戸時代はまだ飢餓飢饉や疫病が蔓延していた時代である。
もともとの仏様の教えではみな平等に救われることになっているのだが、働き手でなければ、順番に死に至らしめてよしとした。
そしてそれは維新とともに改善される兆しが見えてくる。
仏教はいらないもの、劣るものとされ、神社神道がドイツ式を推奨したことによって、年金制度や障害者支援制度が整備されることになる。生活保護も帝国憲法下で整備された。帝国憲法のよいところであるが、国をあげて繁栄しようという建前がよいところであり、その建前のための社会保障制度整備が多少なりとも効果をあげて日清日露戦争と勝ち進む。
合理的判断ができず大敗を喫し、戦後、さらに社会保障制度は拡充されたが、近年縮小の流れに反転してしまった。
もはや米中欧に白旗をあげて日本の繁栄を捨ててしまったかのようにも見える。
そして私が寺院(浄土真宗や日蓮正宗など)を訪ねてきて感じるところがある。
障害者の生活をなにからなにまで充実させたほうがよいという仏教の教え通りの見方が一つ。そしてもうひとつは障害者とは厄介者で不自由なものであるから迷惑だという見方が一つである。働き手を優遇するのが、まずしい江戸期とまったく変わっていないことに気が付いた。布教活動のために働き手が優遇され、お布施のために働き手が優遇されるのは、どの宗教でもあまり変わらないようである。
「法華を識るものは世法を得べきか」という言葉があるが、障害者差別や障害者排除を積極的に行為として行っていないとしても、さまざまな間接的方法で差別や排除はあり得る。寺院として不用意に障害者お断りなどとは滅多に発言しないが、別に抜けてもらっても構わないという排除の仕方、つまり冷遇の手管があるわけだ。礼儀正しく丁寧に寺院参詣をお断りしたり、コロナにかこつけてお断りしたり、陰に陽に厄介者がどうなっても知らない、関わらないようにしておこうという。世間が冷たいのだから寺院がなにをしても世間からは許される。ましてや行政は障害者が死んでくれたらよいし、高齢者が死んでくれたらよいのだから、寺から抜けてくれたら早死に追いやれるので万々歳というわけである。
現代は個人の自由が尊重される時代だから、別に積極的な入店お断りのようなことを表示しない限りは差別だと主張することは難しい。第一障害者も高齢者もよいお客さんであって、一番先祖供養や葬儀などが身近な人たちだから、お断りすることがあまりない。よほどの迷惑行為でもない限りは難しいだろう。
よくわからないところは、江戸期にできあがってしまっている身分差別の空気感なのかもしれない。現代の身分差別は社会的地位と資産による差別が主なもので、差別基準がいれかわってあまり変わらない差別的取扱いがあたりまえに行われているように見える。
寺院はお金に頭を下げる。どこの宗派も同じことである。
新興宗教で仏教をかたらっているところもお金が一番で票が二番、いいかげんな葬式業務は三番目くらいである。
差別なくお金に頭を下げるなら、平等でよいのではないかと考える人もいるが、金額の多寡で差別されることは明らかだから、平等にはならないわけだ。
合理的な判断を欠いて神社神道が政治をやったら大戦で負けてしまったが、神社だけで負けたわけでなく、仏教もお金に負けてしまったのは同じだ。
財閥政治によって政治がコントロールされたとき、現代も似たような状況だが、この収益至上主義がなによりも優先された場合、アベノミクスとか経済最優先という場合、合理的な判断はまったくなくなる。
庄屋と寺院がむかし米によって人間を選別していたように、現代は現金によって信徒を選別するようになったにすぎない。
日本が同じ間違いを繰り返さないことを望むのであれば、経済最優先、収益最優先、財閥政治、経団連のおかかえ政府という政治を改善しなければならない。
政治を改善するという内実であるが、議会の話はさておいて、仏教は神社神道、政府の管理下に置かれているから、自由な宗教活動のために現金が欲しい。
政治とはいっても人間の生活上の立場と言い換えられる。
寺院は役所と同じように個人を尊重する余地がある。現金資産の多寡によって尊重することなく生命の尊厳を尊重するという仏教本来の教えに忠実に平等にその信徒としての立場を認めていくと、地域のみなさんが安心して生活できるのである。
一方で寺院と役所が個人の申請を拒否する手口はきわめて悪質なものがある。個人の尊重とはまったく別のものもまた存在しているのである。
政治不信とは仏教不信や神道不信の別のいいであろうか。僧侶も公務員も富裕層の下請けに成り下がって貧乏人たちを嫌うようなことがあってはならないと思う。
私は菅内閣も安倍内閣も新自由主義の害毒をもった亡国の内閣だと思う。
はっきり貧乏人・障害者・高齢者が滅亡してくれるように早逝してくれるようにという立法を次から次に打ち出している。
御寺が今なにをしなければならないのか?仏様の教えが大事か資産家に尻尾を振るのが大事なのか、ふたたび試されている。
議会政治的に見通しは暗いものであり、ますます仏の慈光はいやますばかり。寺院にはもはや仏教がないのではないかと考えて新興宗教に鞍替えする人たちが後を絶たないのである。
分け隔てなく誰もが平等に尊重される場、そういう世界の創造が寺院の求められる役割なのだが。いわゆる霊鷲山である。
新興宗教が雨後の筍のようにはびこっているのは何を意味しているのであろうか?
貧乏人、障害者、失業者、契約社員が寺院を抜けるのは自由であるし、新興宗教を設立して信者を増やすのも自由なのである。
寺院が自由を尊重するという建前で信徒をやめさせてきているからこそ新興宗教がはびこるのである。信徒を尊重しているとは到底いえないからこそ、江戸期に99.9%の全日本人が寺院檀信徒であったものが、だれも寺院には寄り付かなくなった。
信徒を尊重するか現金を尊重するか、ここが分かれ目であるものを寺院というのはまったく理解していない。
お金に目がくらんで神道財閥政治に媚びへつらって敗戦したように、今また富裕層や資産家の機嫌をとるために檀信徒を減らし続けている。既成仏教の影響力は低下しつづけているのだが、寺院にはまったく反省も改善の兆しすらみえない。
なにが地域の時代の流れを決めるのかといえば、日蓮曰く宗教による。立正安国論のとおりである。寺院には僧侶と総代などの信徒の代表役員が含まれるが、彼らがこのことを自覚しないままに寺院運営を行っていけば、当然に組織率が低下し、寺抜けが当たり前になり、個々人がばらばらになって、財閥政治が強化されていくということになる。
バブル期に相当収入があがった寺院、宗教。
今どんな信心なのかという違いがまさに試されている。
本当に力ある真の宗教でなければ、女性、障害者、高齢者などを虐待してしまうのではなかろうか?よくニュースで事件を目にするが、彼等当事者がおかしな宗教をおかしな方法でやっていたのだろうなと思いをはせる。虐待が起こりやすいように不景気を貧乏人に押し付けて虐待防止法とは皮肉である。
日本人の99%が所属しているのは力のない宗教である。ゆとりのない私利私欲の日本人たちの列島である。
いつどんな事件がどこで起こっても不思議はない。
コロナでもたいした死者が出ず、これほど平和であるのは、釈迦のおかげか日蓮のおかげであるかと毎日感謝している。