FujiYama’s blog

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日本人に経済学賞が出ないのはなぜなのか?日本の学者の偏った感性

 ノーベル賞で経済学賞というのは別の取扱いになるそうで、ノーベルという名前をつけてよいのかどうかという批判すらあるそうだが、しかしスェーデン中央銀行が設立した正式なものである。設立が1969年で経済科学におけるスウェーデン銀行賞というらしい。

 ちなみに私は経済学士の資格は持っているが、恥ずかしながら賞については詳しくない。ただ概略言えることは、人気投票レベルではない賞であり、脈絡がないと評されるほど偏りがないということである。

 それはそれなりに傑出した業績のある科学者に与えられるということで間違いない。

 そして日本人には一度も受賞歴がない。見事にない。

 私の思案にすぎないが、日本人科学者は貧困問題に弱すぎるのではないだろうか。少し生活保護問題でも触れたが、日本人のエリート、東大京大の先生方が生活保護に詳しいというのはあまり聞かない。むしろ偏見や蔑視をお持ちなのではなかろうか。学派によるところ大であるが、政治的主流があきらかに生活保護は不正な制度であるとしているから、きちんと日本国にとって必要な制度であるということを主張できる先生がロクにいないのではないだろうか?住宅問題とそれにまつわる騒音問題、性風俗問題、奨学金貸与制度問題、最近では減額確定の年金問題まで勢ぞろいで貧困問題が山積していて、なんら改善の兆しは見当たらない。医療が行き届かないまま亡くなる人も後を絶たない。これは学術会議や専門の学会で貧困問題が議論されていない証左であって、私の単なる狭い料簡というよりそれが実際の議論の所在ではなかろうか?科学者たちはカヨワイから、貧困問題によって議論を乱されると感じる方方が多いわけである。つまり日本にはまっとうに議論できるタフな科学者がいないのであろう。

 すべての経済学的論証には貧困者が消費者として含まれている。数字によっては富裕層向け高級し好品についての統計などは除外されているだろうが、通常マクロ経済では確実に貧困層も消費者数の中に含まれている。これを議論から外してすべて統計をとりたがっているのが、日本の経済学博士たちである。貧困層を無視して経済を考えているのだから、それはいびつな研究にならざるをえない。経済学をやるのに最大派閥の貧困層を除外する日本の科学者たちでは、いったいどんな研究になるのだろうか?

 デジタル庁の担当大臣が発言していたが、口座から犯罪者によって金銭が抜き取られることはゼロにはならないという話である。しかしこれは開き直りであって、もう少し謙虚に、被害者が常にゼロになるように努力しますとかなんとか言うべきではないかと感じた。そのまま被害が死に直結するような貧困層もいるわけで、死者がゼロにはならないという開き直りは、ちょうど医療過誤を認めたがらない医師の傲慢さとイメージが重なる。

 日本のエリートはバブルを意図的に助長して崩壊させたが、自殺者だって相当出ることはわかりきっていた。この30年で自殺の累計はいったい何人になるだろう。毎年2万人台から3万人台で推移しているからゆうに70万人以上、ホロコースト並みである。日本のエリートがはっきりとした人命軽視の低い哲学しか持っていないということはどうやら本当らしい。

 そもそも経済学の役割は経済圏内の不幸の最小化であってそのことは利益繁栄の最大化と矛盾しない。たったそれだけの貧困と繁栄の関係性すら理解できない博士たちで決定するのでは、日本の経済政策になんら期待はできない。むしろ日本の経済学者に対しては特に年収440万円以下の国民は警戒しておかねばならない。かろうじて生きているだけの年収層として、経済学者が貧困者は自殺や病死するように至極当然のように仕向けているという危機感を持っておかねば、本当にそういった不幸の極みのような国民になってしまうだろう。

 実際に東大出の有名な経済学者は年収200万円で生きていけるなどという本を出す有様である。そんな貧困礼賛のように評されて、日本人はよく黙っていられるなあと不思議に感じる。世界の知性たちが日本を貧困国にしたがっているのであれば、彼が経済学賞を受賞するのだろうが・・・一部の海外の投資家筋などの例外はあるが、世界の誰もそうはしたがっていない。東大出は自分の私利私欲には忠実だが、国のため、国民の幸福のためというところにはめっぽう弱いらしい。今度は中小企業を100万社以上潰すらしい。コロナ様様、これで中小企業がたくさん潰れてくれますという考えらしい。また、さらに自殺や不幸が増え続けるだろう。まさにそれこそが学術会議や特に経済学会の狙いだということなのである。そうと言わないだけ。

 ・・・・・それで経済学賞が出るわけがない。