FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

クラシック音楽に個性はあるか?

 クラシック音楽と言えば、ピアノやバイオリン、フルートなどが花形。しかし楽器を問わず、その訓練は律義に基礎練習ばかりやっているお堅いイメージがつきまとうし、実際クラシック演奏家には多少なりの毎日のメンテナンスも必要です。

 それは楽器や歌唱能力の習得段階でも同じです。結果演奏内容も形式としきたりを律義に守ったものだけが正統であるとされ、それは公開演奏の許可を得るためにはどうしても必要な約束事を護ったものとなります。つまり全部同じ演奏形式になります。

 私はこういう風に演奏したいんだ、とか、この音楽は私はこう感じたからこう表現したいんだ、とかいう自由はないに等しいのです。クラシックの楽譜にはアドリブという指定があります。アドリブはアドリブ指定の範囲内でしか許されません。しかもその内容がまたある程度しきたりによって最初から決まっているという、それは一体アドリブなのかと言いたくなるようなものです。

 言い方を変えれば、誰がやっても同じ演奏になるのがクラシック音楽の特徴です。もはや個性なんて入り込む余地はないのか、と言えば、不思議と一流を極めていくときに個性が浮き立ってきます。形式は守りながら、しかし音楽の解釈の違いが個性となって現れます。しかし一般的なクラシック音楽では個性がないほうがよい演奏だとされているようです。それは聴きやすさになるからだと思われます。いつも同じような演奏であるからこそクラシックファンは同じ曲を繰り返し聴くために演奏会へ足を運び、CDやDVDを購入するのです。これがマチマチすぎるとクラシック音楽文化や市場が崩壊の危機にさらされます。もし個性を出してしまうと自己崩壊するのです。

 誰がやっても同じ演奏になるのに、とてつもない収入の格差があります。諏訪内晶子さんという世界一のストラディバリを使用している方は年収が5000万円を下らないとニュースになっていました。それに比べて年収200万円ちょっとでやらなければならないオーケストラ団員もおられます。エキストラしかないフリーランスはまた別の大変さがあります。そして演奏内容は同等レベルのものを求められます。彼らは実は技術の習得の速さを競う競争の序列に従って地位と年収を決められます。塾長フミ子というユーチューバーが大阪音大から大阪フィルにスムーズになぜ入団できたのか?消耗の激しいオケ団員はなり手が多いようで少なく、特に大フィルは演奏レベルが求められる楽団なので、音大で一位二位を争う位置にいた塾長は恰好の兵隊として採用されたのでしょう。本人も自覚していたように、音大の段階でそこそこ技術の習得ができていたという証明だと思われます。ただ、大フィルの中で個性を発揮できるかと言えば、まったくできるはずがないので、結局クラシックは嫌だという極端な道をたどることになったようです。

 そもそもそれぞれの伝統音楽が基準になって世界中の音楽が存在しており、誰がやっても同じものが音楽です。自分勝手というのは本当に余暇と余剰資産の発現であり無駄であるとされます。そしてお決まりの「誰のおかげで好きなことをやっているのだ」というぼやきが出てくるのです。ロックやポップスならそう言われても仕方がないのです。形式もしきたりもないのですから、ただの好き勝手です。

 無個性な伝統的クラシックの個性はと言えば、強いて言えば作曲家ごとの個性を楽しむことでしょう。作曲家には形式を変更したり指定したりする必要がありました。それは自由ではなく作曲依頼と演奏者の演奏能力による必然的要請によるものでした。その状況にあわせた作曲形式だったので、厳密にはただの状況が生み出した産物であって作曲家の個性というより作曲家の置かれた立場や依頼者の都合と密接な関係がありました。しかしそれでもなお、多彩な楽曲を遺してくれた作曲家の楽曲は個性に満ちています。

 その楽曲を中心にしてクラシック音楽は成り立っています。演奏家の個性はあまり重要ではありません。コンサート会場に足を運んでもらうために、話題を作らなければならないから、このソリストはどうだとか、有名なコンクールに入賞した才能ある、個性ある人材だとかもてはやすのです。実際目を閉じて聴き比べてみると、それほど違いはありません。ただその楽曲を忠実に再演しているだけなのです。バイオリン弾きやチェロ弾きだと楽器の違いが個性になります。経歴も技術を習得したコースの違いにすぎません。結局必要な技術は同じなのですから、経歴も大きな個性にはなりません。

 味なのはみんな同じそれほど違いのあろうはずもない演奏の色合いや風合いが微妙に違うところであり、個性は完全には消せないものだということを見出すことかもしれません。リピーター文化でもありますからどうでもいいような作品は淘汰されて楽曲のレベルに不足はありませんし、演奏家が多彩な楽曲を楽しむのと同じように、聴き手も多彩な楽曲を楽しむのがクラシック音楽の個性ある楽しみと言えましょうか。結論として、そもそもクラシックの演奏に個性を求めること自体が間違いだということです。自由奔放なのは間違いとされ、楽曲がいいからと繰り返し再評価に集う文化です。

 なんだそんなものは面白くないなとお感じになられている方がおられたら、一流のホールで一流の演奏家クラシック音楽を鑑賞してみてから、あらためてクラシック音楽について評価をするようにおすすめします。一度でもよい鑑賞体験をすることが正しい評価になると思います。学校の体育館や路上演奏だけではわからない世界がそこにはあります。いくつかの有名ホールを検索すれば演奏会とチケットはすぐに見つかります。私が一時期の田舎暮らしの時には、都市間バスや飛行機に乗って一流の演奏会へ行ったくらいです。そして日本中、世界中でそういう人たちがいるということは、それなりによいものだと言えるかなと思います。