FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

音楽と商業のイケナイ関係 純情ってなに?

 クラシック音楽のなにがよくて、商業音楽のなにが悪いのか、よくある話の内容はいったい何を言わんとしているのか、いつも考えていることを大まかにやや抽象気味にまとめてみました。(やや長文ですが・・・必要な文字です)

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ホールでなければ聴けない音があります



 

 クラシックは正義でポップスは悪みたいに言われるのは、ちょっと言いすぎなのかなと感じる人も多いのではないでしょうか?それは多数決の原理から言って、クラシックファンはコアすぎて割合が1%と少なすぎます。どちらかと言えば商売には向いていません。まずお客さんが少なすぎるのです。アニメファンの方が圧倒的に多いと言えば、どれだけ少ないかよくわかります。マニアとあまり変わりません。

 しかしクラシックは正義だと言い張る人たちがいます。これは、普遍性があるからだと言われてもピンときません。一つ間違いないことがあって、現代のポップス音楽は平均律という音階でできています。ドレミという呼び名の一音一音の間隔が均等割りになっているので、とても和音が簡単に出せてしまう便利な音階で、これを使っています。クラシックはちょうど逆で和音が一番美しく出るようなドレミになっていますので、音階の調ごとに違う音程になります。どうやらその音階が普遍性という言葉のマジックのもとになっているようです。

 音楽は普遍性があるという場合に、どこの地域でも同じドレミかと言えば、まったく違うのです。しかし人間がもっとも美しいと感じる音階は、実は純正律というクラシックの主に古典時代に用いられていた音階で、私はこれを人類がみな美しいと感動するので、普遍性があるものと定義したいと思います。それぞれの地域の音階や曲もすばらしいのですが、より複雑でダイナミックな音楽表現ができる純正律には敵わないからです。弦楽合奏やオーケストラの音程をよく美しいと感じるのは、当たり前ですが、ただ楽器がよいだけではそうはいきません。

 時代が変わってピアノやキーボードが大量生産されているので、平均律が世を席捲していますが、そのバイオリンやチェロなどの純正律はどうやら変わらない、というより楽器がそういう楽器なので無理にピアノに合わせようとしても違和感が出てくるのです。時々実際に変な音感の人の演奏も耳にします。ぱっと見は決して変ではありません。同じです。珍人類です。

 きちんと訓練を受けたバイオリニストは音階が微妙に違うものにも微妙に合わせることができます。なので、ロックやピアノともきちんとハモることができます。

 要するにもっとも美しい音を出そうとすると純正律で、譲歩の大衆版としてピアノの平均律が発明されてきたいきさつがあるので、弦楽器を外さない音楽が主にクラシックであって正統派になっています。ピアノは正当派ではないのかと言えば、作曲家と時代によって正統にもなり、亜流にもなります。ただ平均律を前提にして作曲されたものだけが正統なわけです。

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魔性の楽器?

 音楽が商業的に難しい、機材商法に走りやすい理由が見えてきます。もとはといえばクラシック音楽業界で商業としてどの程度儲かるかと言えば、それほど詳しくはありませんが、まったく儲けなんてレベルのものは期待できませんでした。ただ大ホールで満員御礼の場合だけが花形ということで、どうやっても才能や財力などの諸条件によって食いつなげる演奏者や作曲家は限定されました。楽器職人も別に高額所得者になることはよほどの才能と財力があってもありませんでした。現代でもそれほど儲かるというものではありません。売れっ子は外車くらい買えるでしょうが、生計を立てるのがまず一番です。せいぜい実力のあった楽器商が有名どころです。それもまだ名器がそこらへんにゴロゴロあった時代のことです。

 非常に地味な歴史がまずありますね。

 しかし面白いのは別のところで、たとえば楽器を見てもふつうに良しあしは見た目上、それも表面上のものしかわかりません。未開人とかチンパンジーはそこでは同じレベルになってしまうわけで、弦楽器は木の箱でしかありません。しかしその価値の違いは音量と音質の違い、弓ならそれに操作性というものが加わってきて価格が天地雲泥になります。その見分けがよくつかないものに価格を設定して売るわけですから、多少の誤差と商業性がそこには存在しています。高く売れればそれが商売で、それは生計のためですから。コロナウイルスや病原性大腸菌ではありませんが、なにか憑りついているような恐ろしい楽器もあります。はったりを言ったり、ラベルを偽造してでも高く売ったという話は枚挙にいとまがありません。

 これに対してポップスの音楽機材はごまかしがきかない工業製品で量産品です。これこそ音量や音質に価格を設定して他には使えないシロモノでまさに商品です。みんなよくわからない内は楽器の良しあしを誤魔化して商売できますが、ちょっとわかってしまえば、もうそんな商売は先が見えています。そこで現代の批判の的になっている商業音楽というものが成立しました。

 たとえばクラシックバイオリンは名器の数が世界で1000本程度しかありません。あとはよい楽器は新作楽器で、まだ熟成されていないため、限定1000本のイメージです。そうなると楽器商をやる上で、飽和状態に達しているものとみるのが正しいでしょう。中途半端で病んだような古い楽器に毒されている間は、文明もまた病んだ発展、繁栄をしていきますし、本当によい楽器だけを見分けて選別していくとその文明は健全な方角を向いて軌道修正されていくのです。

 現代音楽においては大量生産の工業製品をいくらでも生産できますし、バイオリンなんかのように難しいことをやらなくても比較的簡単に操作できるというイメージ戦略も手伝ってか、いくらでも無限に売れるだけ売れればそれで商売が成立するという時代になりました。暇な人がいてキャッシュが少し浮いていればお客さんになれるわけです。

 同時にそこでもうひとつの商業、販促のための音楽が劇的に進化しました。演奏して楽しむとか楽器コレクターとして楽しむとかいうことをターゲットにしていただけではなく、音楽でどこまでも消費を拡大しようとしたわけです。マスメディアがこれだけ発展していれば自然なことでしょう。ホールから家庭に進出してきた音楽は非常に印象に残る短く刺激的なものに変貌していきました。そしてそれは古典が大事にしてきた美しさや自然な肌感覚とは違った危険な薬物としての快楽を追求するようになってしまったのです。

 みな音楽を勉強しようとするとまずクラシックから取り掛かります。しかしクラシックでは食べていけないと合言葉のようにつぶやいたり嘆いたりしています。そしてその技術を生計に変えるためにならなんでもやるという冒険心のある切羽詰まった一群の音楽家たちが常に存在していました。今でもそうです。

 そうなのです。音楽というのは技術面がありますから、それを何に使うかというのが問題になってくるのです。人に衝動買いをさせようとしたり、快楽に埋没させようとしたり、自己中心的な人間になるように仕向けたり、そういう危険な技術としての音楽には要注意だなとよく思います。

 そういったおかしな心理にさせたり人間をすら変えてしまうような音楽という魔性をきちんと見極めていかなければなりません。

 なぜ古典音楽、クラシックが正統派なのか、それはひとつには仮に極端な商業主義による興行があればそれとわかる形で存在するからでしょう。なぜかクラシックのチケットは廉価です。音大に行ったり留学した人達が勤めているオーケストラのチケットもソリストたちのリサイタルチケットもそれほど高価ではありませんが、それは一体なぜでしょうか。中には高価なものもありますが、だいたい海外遠征費込みになると高いに決まっています。そういう特別に経費がかかるものを別にすれば5000円以下でほとんどのコンサートが聴けてしまいます。家族連れなら2500円前後のチケットや無料の音大生のものを選ぶ方法もあります。バブル時代は過ぎ去って文化的成熟をしてきたということもあるのでしょうが、クラシック音楽は全世代の共通の財産であり、共通の幸福の享有だという、すこし大仰ですが、実際そういう性格の音楽です。

 ポップス音楽はやはり中年世代くらいまでが限界です。同じ音楽をずっと聴き続けてなおかつ健全な精神でいられるかどうかが重要です。偏った趣味になる恐れが強いのは、同じ曲や同じ歌手ばかり聴いていれば、その偏りで自らを洗脳するようなものだからです。

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真に美しい音とは

 クセのない美しい音楽を様々な作曲家で編成されたプログラムで幅広く聴く習慣をもっていれば、つまりクラシックならそういう変なクセに陥りにくいのではないでしょうか?

 そのことがもう一つわかるのは、作曲家たちの行動原理です。名声や地位を最優先したような作曲家たちはその記録をたくさん残していきます。犯罪者なら証拠をたくさん残したのです。誰が誰を批判するとか誰かがグループを作ったとかいう原始的な政治がそこには働きました。ですから、真に人間らしい感情で、または崇高な魂で、いかに作曲したかということが公平に理解できるような素地がそこには歴史資料として遺っているわけです。その史実としての面白みと公平性が手伝ってクラシック音楽の実力というものは色褪せません。同時代に星の数ほど作曲家が存在しているにもかかわらず、同時代に公開評価されているのはわずか数名から数十名までの間です。そして歴史にのこるいわゆるクラシックの作曲家と言えば、みなさんが聴いたような作曲家たちです。ニセモノが紛れ込む余地がありません。品質保証つき折り紙つきで、なおかつ洋の東西を問いません。全世界中でその評価が定まっています。近年では黒人や中国人まで大舞台でバイオリンを弾いていて、なんだか妙な気持ちになります。きちんと演奏できるかどうかは師匠の訓練ひとつです。

 連綿と伝わるクラシック文化には、口伝文化という面もあります。表現や奏法が楽譜に十分記されておらず、口伝相伝で代々伝わっているのです。そこまで込みで守るものを護って正統なのですから、同じ興行が商業であっても別物ということになります。

 現代に溢れかえるポップスなどの消費音楽は、民族や人類を若いうちに洗脳して消費しつくしてしまおうという悪ノリにあふれた音楽です。テレビや歌謡曲などには本当に注意をしておかなければ、人間はこれ以上人間であり続けることが難しいでしょう。人生100年時代といわれるほどはないとしても80年は想定しておかなければなりません。通常の無意識の生活をしていれば人間の聴力は衰えます。音量だけではなく可聴域が狭くなります。クラシック音楽を聴いていれば、聴力は長持します。理由は明快。自然の音質だからです。

 食事だけではない音楽的不摂生というものにも要注意なわけです。

 音楽と商業のイケナイ関係とそれに対する純情、おわかりいただけましたでしょうか?