FujiYama’s blog

バイオリン弾きの日常的な生活の風景、感想などのブログです 政経もけっこうあります

幸福の最大化と多数決の違い

民主主義というのはよく多数決の原理と言われます。だから多数決なら正しいという単細胞な人たちが多いです。例えば死刑は必要だという世論調査過半数が必要だと言えば死刑は正しいという感じです。生活保護制度を廃止にする話でも多数決なら廃止の筈だと息巻く人たちが大勢います。
彼らは死刑がなければなにもかも成り立たないように感じています。そして世論調査の回答率については見ていません。ほんとうに過半数であるのかどうかそもそも分かりません。生活保護制度を憎んでいるので回答率なんて知らないというわけです。
障がい者や高齢者、一人親世帯、疾患のある世帯などを虐殺して当然だという野蛮性をもった人たちが大勢います。
彼らには幸福の最大化という概念がそもそもないのです。大学教育を受けていないか、大学は行ったけれどもそんな概念できないという人たちです。
これは学業のカリキュラムだけでは理解できない人がいるということでしょう。
憲法改正については難しいところがありますが、現状日米安保が確かなもので下手な軍拡路線を突っ走って自滅することが明らかなので、米軍の補完として対中政策を練り直すことも重要だと思います。尖閣諸島の周辺のことや大和タイのことを考えてみると我が国の権益を守るためには、なによりも米軍の支援が重要です。日本独自で軍事技術が確立するのは不可能なので、技術的にも装備的にも人員的にも米国依存型はやむを得ないでしょう。
これも幸福の最大化のためであり、多数決でたとえ改憲再軍備ということを決めても、結果としてはアメリカ抜きで日中戦争になれば中国が勝利するという台湾や日本人みんなが損をして中国だけが儲かるという事態になりますので、正しいとまでは言い切れないと思います。
数がすべてで金がすべてというやり方は民主的な幸福の最大化にはならず、財閥が一時期ぼろ儲けはしますが、領土を失い、人口を減少させ、人心が荒廃するというのが、日本における多数決の原理の予測可能な結果なのです。多数決で不幸を増やす民族は、先進国においては日本以外にはどこにもありません。
日本人は政治に関しては残念ながらまさに幼児性や残虐性の残遺した先住民族としての神社神道のレベルを超えていません。
いまだに未開人の国なのです。
ある意味貴重な未開人の国であり、同時に危険極まりない野蛮人の多い民族であるとも言えます。
考えてみれば変な話、インディアンやアイヌが政府を作り、最強のイージス艦を持っているのですから。雄たけびを上げながら敵に切り込んでいくという間抜けな大戦をやって大敗を喫したにもかかわらず、まだ死刑を温存し、生活保護は悪いとか、再軍備しようとか言っているのです。
東アジアの繁栄と日本の繁栄を両立させることが重要で、その地域の人間がみな幸福であるという状態を作り出すことが政治の仕事です。
それを幸福の最大化と言います。
この政治の大原則を理解できない日本人は最悪中国人より程度の低い人種ということになります。国の規模から言えば韓国朝鮮半島レベルですね。
日本の神社神道が科学的知見を身に着けて、なおかつ国民の間にそれらを理解する能力が育ってきたら、その時にようやく民主主義とか自由とかいう言葉が生きてくるのでしょう。
どうやらまだまだ極東の域を出ないようです。
みなさんがトランプじゃなければとか主張していますしね。どれだけ単細胞で目先しか見ていないかよくわかります。
クリスチャンが目先しか見ないのはある意味宗教的あるいは個人的に理解できますが、神道にもそんな人たちがいるのです。
彼らは自分たちが正しいと信じていますが、それが中国の覇権を増長させていることには気が付かないのです。中小国がみんな中国についてしまいます。
マスコミで桜を見る会を取り上げるなとか任命拒否問題はもう構わないのだとか、そういう中国共産党と何にも変わらない考え方の日本人も大勢います。
かれらは自分たちが絶対に正しいと信じていますが、日本国内の障害者や困窮者が自殺することに関してはなにも感じない残虐非道な人たちです。
正常な人間であれば、域内の幸福の最大化をしようとしますが、日本人の多くは幸福の最小化を懸命になってはかる、つまり面倒な人たちはみな自殺してくれとキャンペーンをはっているのです。
異常な日本人たちがいて、日本の自殺率が非常に高いという数字を見ると、彼らの罪深さがよくわかります。
その意味からも自民党公明党の連立与党には反対一本です。
中国共産党寄りの日本人たちが必ず言うのがキリスト教こそ残虐非道なのだからアジアだけが言われることはない、というロジックです。
しかし残念ながら全体観に欠けたロジックなのです。なんのための実力行使なのかまるでわかっていない人たちがアジアのナショナリズムをあおっているだけだと気が付けば、幸福の最大化を選択するようになり、アジアの正しいグローバリズムが実現することになります。

バイデンの使い方

バイデンはコロナ対策を挙国一致のために使うと明言するようなキャンペーン大統領だ。コロナで死人がどれくらい出るとか対策で景気が後退するとかいうことはあまり関係ないわけだ。アメリカ統一のほうが重要だという大統領らしいところがある。そして自由主義の諸国を統一する意味合いもそこには含まれるだろう。ようやく合衆国大統領の役目を果たしてくれそうな印象になる。黒人はダメとか移民はダメとか言っていると国としてまとまらない。
中国に甘いというのは、私は眉唾だと思う。政策を決めるのは大統領一人ではないし、誰もがアメリカの国益自由主義を守って当たり前だと考えているからだ。そんなに甘くできるわけがない。
トランプ大統領はTPPに加盟しなかったから、そこで中華に譲らないでバイデン政権にはどんと加盟してほしいところだ。ASEANやRCEPとの絡みで考えてもアメリカが譲る必要性はないはずだ。
さらにパリ協定に再加入すると世界は落ち着く。みなが好き勝手するような国際関係では環境問題以外の難問題でも事態を協議すらできないことになりかねない。バラバラでは中華が暗躍する。
とにかく今これからの世界の喫緊の課題は中国共産党の増長である。皆で協議して自由と民主主義を守らなければならない。危機的な世界の状況をみなで共有して事にあたる必要がある。
バイデン大統領はその旗として使うのが最善であり、彼はその任におそらく適当ではなかろうか?
バイデン候補がテレビで北の首領を指して、あのならず者と明言したのを聞いたとき、バイデンなら世界の平和と人類の未来のために一戦交えてくれるのではないかと強く期待してみようと心に決めた。
みんなで団結してならず者と中華の横暴に断固対処することこそ今の合衆国大統領に求められているミッションだと思う。

日本人の痛すぎる感覚

日本人がやけに自殺してしまう。
なにがあったのか、引き金になったのは貧困、家族問題、職場の問題からだという。それらを引き金にうつ状態精神疾患になって命を絶つのだそうだ。
これは引き金はすべてお金の問題ではないかと思う。家族問題は半々だろうけど。
日本人は貧困に弱いということだ。
しかし貧困に弱いのはどの国でも同じではなかろうか?先進国で貧困が多いのは日本がダントツである。途上国なら貧困といってもわざわざ自殺までには至りにくい。
先進国の貧困は自殺に直結しやすい。
こんな当たり前の統計、数字があって、なぜ実質賃金が下がって生活用品物価だけ上がり、失業者が増えて、契約社員が増え続けているのか、つまり貧困が増え続けている事実があるのは、どうにもならないことか?
繰り返すが、先進国の貧困は自殺に直結しやすい。
私はずっとアベノミクスに懐疑的だった。株価を釣り上げるだけの経済政策では貧困層を増やすだけだと危惧していた。そしてやはり自殺者は増えてしまった。女性や子供の自殺が特に増えてしまった。
また平均株価が最高値を更新している。
きちんとした貧困層への支援が必要であることは明らかなのだが、株価だけ高ければすべては美味くいっているし、いい塩梅だとほくそえんでいる人たちも多い。
自殺は本人の意思ではありえない。病気のせいでもない。貧困層を増やすことによる家族関係を含めた政治的な虐殺、ジェノサイドである。
そこになにも感じない肌感覚は、日本人の半数近い人たちの精神異常ではなかろうか?と思ってしまう。感情鈍磨として考えざるを得ない。自殺はゼロにはならないから問題ないと言い放つ官僚もたくさんいるだろう。
自殺は苦しみの果ての最終選択だから、国がきちんと各種医療支援と経済支援を絶対にしなければならないことは間違いない。うつ状態と貧困との因果関係がハッキリとしているのだから、国は自殺を減らす方向で給付金を確実に実行するべきだ。
貧困に堪えながら生きていたりこれから貧困になることが間違いないという今の時代、日本人の大多数はかなりの痛みを感じていると思う。

しっくりくる音と乗りきれない音

バイオリンを弾いていて、楽譜の違いについて、以前記事にしてみたが、さらに演奏の喜びと鑑賞の楽しさになる楽譜という点で、やっぱりきちんとした楽譜がいいなあと感じ入ったので、これをどうしても書きたくなった。
スズキの楽譜のものも聴いていて なんとかそれらしく聴こえたりちゃんと聴こえたりするものがある。曲にもよるのだが、ごく一部の曲はきちんとしてるのに、大半が違う。顕著なのは、お手本の録音を聴くとわかるのだが、お手本では楽譜と違う弓づかい指づかいで演奏している。つまり楽譜がほぼ無意味ないい加減なものになっている曲すら結構ある。
練習用の楽譜として考えるとしてもそれはおかしい。一応演奏用だから曲が音楽として楽しめるように弓づかい指づかいを指示しなければおかしい。
一方で、ベーレンライターやヘンレ版を弾けば弾くほどしっくりくる。弾けばわかるフィット感がある。ぴったりくるので音楽しやすい。
逆に言えばスズキなどのいい加減な楽譜ではスカスカでサッパリな感じがします。無機質な感じすらします。無理矢理感情移入しなければ弾けません。
この違いは私の主観的感覚なのかなと検証したとしても、きちんとバイオリンを弾こうとするかどうかの違いだと思います。まあいいやというポップス的な感覚ならスズキなどの譜面で不満を感じないかもしれません。
しかしスズキの豊かな人間を育むというキャッチも虚しく響きます。
ガッツリクラシックが好きで演奏しようとすると、かえってきちんとした楽譜でなければムリだなと思います。楽器と自分が一体になる感じでないとまともに弾いた感じがしないんです。
音楽にこだわりは付き物だと思いますが、みなさんはどんなところにこだわっているのでしょうか?ノリ、味わい、深み、高み、明るさ、トータル充実感というところでしょうか?
良いホールの弦の響きが私は一番好きなのかも知れません。弦セクションはほんとうに素晴らしい響きです。この世には妖精や精霊たちがホントにいるんだなあと。その音のイメージとぴったりくるのが良い楽譜、しっくりくる音だと思います。
バイオリンを習うのに先生の違いを問題にする前に楽譜の違い、メソッドの違いを間違えないようにしなければなりません。スズキメソッドに頼ると、バイオリンが少し違う楽器になる危険性があります。楽譜とメソッドの違いに注意しましょう。それらしいバイオリンモドキに終わってしまいます。
いままでどれだけ多くの人たちがニセモノをつかまされてきたのか考えると、まがいものの罪は大きく深いなと思いました。変な人生哲学に騙されてその気にさせられると、それこそ人生を間違えかねませんから。音楽もまたカルトと紙一重なところがあります。

踏切の向こうの少女

この間、家路にあって都電の踏切が開かずの踏切になってしまっていた。片方が数珠繋ぎになって停車しており、もう片方は車両の影も形もない。踏切の側の電停では事故のアナウンス。
いくら待っていてもらちがあかない。
大人は臨機応変とばかりに遮断機をくぐってさっさと踏切を渡っていく。次から次に渡っていく。
私はどうしたものかと周囲を見渡す。
すると1つ隣の踏切は開いていた。
まだ小学低学年らしい少女は向かいでモゾモゾしているが、電車の運行状況や事故の状況はまったくわからない。隣の踏切にも視界が低いので気がつかない。
きっと遮断機をくぐってさっさと渡ることに抵抗を覚えているのだろうが、自然なことだ。
私は1つ隣の踏切に向かった。
結局少女がどのようにしたのかはわからない。
でも、赤信号を渡っても一般人から咎められないある意味貴重な機会であった。警察官がいたら迂回して別の踏切を渡るように指示しただろうか。
一般風俗なら赤で渡ってもよいとしている。
逆に青信号なら進めと教えるのは要注意で、青信号直進でも事故はたくさん起きている。だから正しい教育なら、青信号は注意して安全確認しながら進めである。青を信じて事故にあった多くの方々の悲痛な声を教育に活かして欲しいなと思ったある日の午後であった。

カルトはいらない

我田引水や自画自賛と間違えられるかもしれないのですが、日蓮正宗は健全な宗教です。
カルトはもうそれしか見えないように仕組んでいるので、逆にわかりやすいものです。
たとえば創価学会のために生きなさいとか、この宗教をやればすべてが解決するとか、ありえないことをそそのかして、その宗教だけにのめり込むようにしています。飴と鞭でうまく宗教組織に取り込むのです。そういう非科学的な妄想の世界に夢中にさせれば坊主丸儲けになって宗教法人はウハウハです。
冷静になって考えると馬鹿みたいなことを信じてお布施や寄付などに邁進するのです。
キャンペーンのように坊さんはゼニ儲けだけやっているというイメージがありますが、これは正確ではないことに気がつきました。実例として、浄土真宗なら生活保護受給者から一回あたり5万円の布施をとって平然としていましたが、日蓮正宗では上限が5万円になっています。
これが意味するのは、貧乏な人もどうぞ遠慮なく御寺へお越しくださいという分け隔てのない寺院運営の基本的姿勢です。仏さまに対する供養は千円札一枚からで結構です。浄土真宗では葬儀や戒名に数百万円でも当たり前にとりますが、日蓮正宗ではどんなにお金を出したくても5万円までしか受け取ってくれないのです。非常に平等にできています。
さらに朝晩の勤行という厄介な儀式がありますが、義務かと思ったらそうでもなく、柔軟に励むだけでよいものです。きちんとやろうと思ったらその時すればよいもので、なにも出来なければ信徒資格がないわけではありません。この当たり前の感覚で自主性を尊重しながら奨励するという基本的スタンスがなにより健全だと思いました。
宗教といえば、なにかとノルマとお金だけで、非合理的、非科学的なカルトのイメージが我々一般的には固着してしまっていますが、それは日蓮正宗には当てはまりません。誤解のないように敢えて記事にしておこうと思いました。
なにか暇でお金がある人たちがするものだというふうに考えている人があまりにも多いので、誤解されている理由を考えていました。悪い宗教しかないからそういう誤解が生まれているということですね。
そもそも御利益があるように見せかけたり思い込ませてお布施をせびろうというトンデモナイ宗教屋くんだりばかりでは誤解とも言い切れませんね。
日蓮正宗ですら正しい本尊への唱題の良さが分からなければ、霊山浄土の良さが分からなければ、平たく言えば仏さまというのが分からなければ、そこらのカルトとどこがどう違うのかわからないかもしれません。
なにかとあわただしくせかせかとした日常のなかで、宇宙を深呼吸するような法悦を体験することは、浅い仏教やカルトでは絶対に不可能です。
ほんとうに正しい仏教ならば貧乏な人も病気の人も集える負荷の軽い楽しい道場としての寺であるはずなのです。
そういう生きていても不慮に死んだとしても楽しいというくらいの負荷の軽い充実した修行の場を提供できなければウソ、インチキだと思います。
仏教の正統は日蓮正宗で、他は亜流です。

富国強兵

今の時代になっても国の基本的な方向づけは富国強兵ではないかと思います。
勿論富国が先です。強兵は結果として自然にそうなっていくというだけです。
富国を第一にするために、なにをしたらよいのかよくわからないというのが大半だと思います。
昔はドイツ文化を一番にして富国強兵を押し進めましたが、今はもう少し広い目で富国を考えなければなりません。先進国各国の移民、福祉、教育、コロナ対策、外交、防衛などを参考にして、人口、教育、経済などバランスよく発展させるような政策が求められています。
自民公明政権になって安定した政権のもと、状況が改善したり成果が上がったりということがまったくなく、これはムリだという現実と統計の数字が出てきました。
日本の繁栄のために、ここらで政権を見直す必要があるのではないでしょうか?
コンビニの値段がやけにあがっています。格安スーパーの値段もかなりあがりました。
このままでは日本人はみな絞め殺されていきます。